幸福論・前編
大学生の時に数々の古今東西の幸福論を夢中になって読んでいた時期があった。きっと自分は幸せになりたいという欲求が強かったのかもしれない。
「幸せでない」と「不幸である」という考え方は多くの人が持っているかもしれない。幸せになるために働いて、幸せになるために友達を作り、欲求を満たすことで幸せになる。私は幸せになりたかった。嫌なことが続くと不幸だと思い嘆くこともあった。つまらん幸福論を持って生きていた。
仕事をし始めて、私の幸福論は粉々に砕かれることになった。
様々な種類の部署がある中で、私は最低最悪の部署に配属されて、地獄を味わった。幸福どころか、普通の常識では考えられないような人間に囲まれて、常識が通用しないことを前提に、どうにもならないのに体裁を保たなければならない。一応その建物には名前が付いているが、それは実際にはその種類の施設の役割を果しておらず、我々のする仕事は全て「ごっこ」に過ぎない。
その「ごっこ」をきちんとできないことに対して若手の職員をなじる先輩Aがいた。毎週の会議で「どうしてこの仕事を選んだのか」「やる気はあるのか」「なぜできないのか」あらゆる罵倒を受けていた。今考えても真っ当な方法で今の仕事をできるはずはない。その先輩の言うことは正論ではあるが、それは普通の環境で通じるもので、今この場所では正論ではない。
毎朝起きた時の絶望感は今でも覚えている。朝が来てしまった。職場にいかなくてはならない。行くとまた最悪な時間を過ごさなければならない。
新入社員なので、研修があった。週に一回、職場に行かなくても良い、救いになるはずの一日なのだが、私にはその救いを受け入れることはできなかった。同じ条件で採用されて、私の職場に赴任せずに済んだ人間が楽しそうに話している姿を見て、笑顔で話しをする気にはなれなかった。時間が空くと喫煙所に言ってタバコを吸っていると大きな体をした男が話しかけてきた。彼は私の職場の割と近い場所に派遣され、私の職場の状況をよく知っているようだった。
「君の職場で一度働いてみたいな、やりがいがあって楽しそうだ」
私は何も答えなかった。ただ彼に対してはっきりと激しく憎悪したことだけは覚えている。一瞬、彼に殴りかかる自分の姿がよぎった。彼を引き倒し何度も何度も殴ることを想像しながら煙を吸い込んだ。大きい男は何かを勘違いしている。私が毎日感じている絶望感を知らないで、一欠片の悪意もなく私を怒らせた。タバコの火を消して、黙ってその場を立ち去った。あの日のことは今でもはっきりと覚えている。絶対に忘れることができない。
脳みその話を以前書いたが、脳みそが壊れるきっかけは先輩Aの裏切りだった。私が仕事を全うできないことを何度も否定され、自己嫌悪に苦しんでいたある日に、決められたルールを自分の出来る範囲で必死に守っていた。ところが、そのルールは誰も守っておらず、正直に守っているのは私だけになっていることを指摘された。私は信じることができなくて、担当している職員全員に確認をした。皆正直に「諦めた」「できていない」「不可能だよ」と言い、申し訳なさそうにしていた。それでも納得できなかった私は最後に先輩Aに確認をした。先輩は少し考えを巡らせてから一言。
「よく覚えていない」私はAの顔を見ていたが、Aは私と目を合わせることをしなかった。
Aは自分自身ができていないことを他人に強要し、できない者の人格まで否定していた。半年間以上も、自分はできていると私たちを騙し、実際には自分に都合の良いように見せ、好きなことを好きなだけ言っていた。
私は本当にショックを受けた。私だけがルールを遵守していたことで、私の担当する仕事は修復不能の状態になっていた。もう取り返しがつかない状況で残りの半年間を過ごさなくてはならない。その後、その場所に行くたびに私の心が壊れていくのが自分でもわかった。
家に帰ってテレビをつけることができなくなった。
机に向かって座ることができなくなった。
携帯電話にくる着信やメールを見ることができなくなった。
食事も、睡眠も、性欲もなくなった。
仕方ないので、次の日の仕事の準備をベッドに座り、膝の上にアイロン台を置いてその上で行った。運転をしていると、歯を磨いていると、当番の仕事をしていると何の脈絡もなく涙が出てきて止まらなくなる。場所も時間も関係なく泣いていた。悲しいという感情もないのに涙はどんどん出てくる。
死ぬことは考えなかったが、運転中に泣いていたら事故を起こしそうになった。このままでは事故を起こして誰かを傷つけてしまうかもしれないので、上司に相談をした。
私はもう普通の精神状態ではないので病院に行ってきます。
仕事に戻ってこれないかもしれないので、代わりの人を探し始めてください。
私がいない間、穴を埋めてくれる職員に申し訳ないですと伝えてください。
以上のことを泣きながら伝えたら、上司が病院に連れて行ってくれました。
その時に言われたのが「好きな病名を書いてあげる」という救いの言葉だった。
続く。