幸福論・後編

 上司と共に言った病院で何でも病名をつけてくれるという言葉をもらい結果として、仕事を続ける原動力を得た。矛盾しているけど、壊れていた時は何が起こっているのかはわからなかった。上司が医者と相談をして無難な病名をつけてもらい、それを社長に上司が提出した。

 

 導入剤は何年も飲み続けているから慣れていたけど、気分の落ち込みを抑える薬は初めてだったので、心配だったが特に影響はなかったと思う。

 

 医者の言葉は前の記事で書いたものだけではなかった。

「そんな仕事ならやめたほうがいい」

「頑張ってもなににもならない」

「続けても良いことはない」

 これもやはり、壊れた原因から遠ざけようと言ってくれた言葉だと思い返すことがあるけど、この言葉も私を変えるきっかけになった。

 私の担当する仕事は相変わらず滅茶苦茶な状態ではあったが、どうにかすることをやめた。私一人にどうにかなるのなら、とっくに職場は改善されている。この状況は私が原因ではない。しかし人の話を鵜呑みにして馬鹿正直に人の話を聞いていた私も悪い。

 Aの行動のことを考えた。Aは自分が有利になるように、自分自身を守るために立ち回っただけだ。そこに自己顕示欲と承認欲求とプライドが入り混じって歪んだ言動と行動をしていただけだ。恐れる相手ではなくて、可哀想な人間だとわかってあげるべきだった。

 私はこのままでは終わらせないと決めた。再び壊れるようなことがあればすぐに辞める準備をした。上司と両親に、いつ終わるかわからないけど、限界がきたらすっぱり辞める。やめた後のことはやめてから考える。

 

 この時になって始めて自分の幸福論が自然と頭に思い浮かんだ。

 人間は幸せを求める。幸せにならないといけないという幻想を潜在的に持っている。不幸になるとさらに強く幸せを願う。これは自分自身が思ってきたことだが、それは全て間違っている。世の中に不幸だと感じることはいくらでもあり、それは常に自分周りにあるものだ。不幸な出来事、その可能性を消すことはできない。不幸は恒常的なものであり、克服するものではない。自分にとって都合が悪いことは当たり前で、それを前提に考えないと、目の前の問題は解決しない。

 大切なのは、周りの人間をよく見ること。性善説性悪説かという議論はバカバカしいものだ。人間は愚かで、自分勝手で、悪意に満ちている。誰もが「取り返し」を狙っている。「取り返し」はいつか考えがまとまってから書こうと思っているが、皆が持っているものだ。

 話が逸れてしまったが、私の幸福論は「自分の幸福を放棄すること」だ。幸せを求めない、他人に期待をしない、希望的観測は絶対にしない。

 一般に不幸と呼ばれる状況を当たり前のものであると認める。「幸せ幻想」は自分を苦しめるが。常にある不幸を認めることは自分の心を救ってくれる。

 誰かがどこかで言っていることの真似になっているかもしれないが、五年前に自分自身で描いた幸福論は今の自分にとって最も大切なものの一つだ。